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No.172

update.2025.10.29

教科書に載っていない!『食』から見る歴史の裏側

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「歴史」と聞くと、多くの方は、遺跡や偉人、戦争などをイメージするかもしれません。しかし、実は私たちが毎日食べている「食」から見てみると、とても意外な歴史の真実が浮かび上がってきます。
たとえば、あの独裁者ヒトラーが、ベジタリアンだったことをご存じですか? 健康を意識したナチスの食生活が、差別や排除に繋がっている面もあったんです。他にも、学校給食開始の背景には驚きの発見が……!?
今回は、人文科学研究所の藤原辰史先生にお話を聞き、食の視点から歴史の裏側や、現代社会が抱える問題を一緒に考えてみましょう。

藤原辰史 人文科学研究所教授

食の視点で解き明かす歴史の意外な真実

――まず、先生の研究内容について教えてください。

「僕の研究は『食と農の現代史』です。食べ物は私たちが生きていくうえで不可欠なものですが、たとえば学校で学ぶ歴史でも、登場する人物が何を食べていたとか、どの食べ物が好きだったとかはあまり出てきませんよね。そういった従来の歴史学を見直して、食べること、つまり私たちの根幹から歴史を描いてみたいと思っています。20世紀を根幹からとらえれば、私たちの食卓・台所の延長として、より身近なものとして歴史が見えてくるのではないか、そんな問題意識を持っています。

20世紀の現代史の中でもとくに僕が注目しているのは、1933年1月30日にドイツで政権を取ったヒトラー率いるナチ党です。ヒトラーやナチズムというと独裁や虐殺といったイメージがあると思いますが、食の視点から見ると、ナチスの違った側面が見えてきます。

たとえば、ヒトラーやナチス上層部の少なからぬ人たちは菜食主義者(ベジタリアン)でした。ナチスは『健康』という言葉を重要なキーワードとして、健康であることを国家として重要視して義務にしていました。その結果、『健康でない』とレッテルを貼られた障害者が排除されていったわけです。極端に聞こえるかもしれませんが、この史実は、私たちが普段の生活で使う「健康」という言葉の延長線上にナチズムがあることを意味しています」

ナチスが開催した農民称揚イベント「帝国収穫感謝祭」のスケジュールが記してある行政文書(Hameln-Pyrmont Kreisarchiv所蔵)

――先生が今の研究に取り組んだきっかけは何だったのでしょうか。

「僕の実家は専業稲作農家で、中高生の頃、中国山地の山奥で過ごしました。美しい棚田が広がる奥出雲(島根県)の超ド田舎で、信号は一つしかなかったし、本屋は一軒、塾も美術館も映画館もない(笑)。まさに『文化果つるところ』だと思っていたんですが、実は江戸時代には大工業地帯だったことがわかったんです。たたら製鉄が盛んな土地で、宮﨑駿監督の『もののけ姫』の舞台にもなっていますが、北九州工業地帯の発展とともに、この地の工業は衰退し、砂鉄の採掘で削られた山肌は田んぼとなりました。歴史を学ぶと、自分の育った場所や今住んでいる場所が途端に厚みをもってくる。それが歴史研究の面白いところだなと」

奥出雲の田んぼで田植え作業をする藤原先生
かつてはこの奥出雲にあった山を削って砂鉄を取っていたそうですが、今は自然豊かな棚田となっています

――もともと農業や歴史に興味があったのですね。

「そうですね。京大に入学し、農業問題をやりたいと思っていました。当時、このテーマは古臭いとみなされていて、国際法のゼミでコメの自由化の発表をしたあと、院生の先輩からも『そんな古いことをやってもあまり意味はない』と言われました。ところが、ナチズムについて学んだときに、ナチスが自給自足をめざして農業を重視していたことを知ったんですね。アウシュヴィッツ強制収容所や独裁や戦争といったイメージしかなかった人たちが農業を大事にしていたという事実にちょっとめまいがして、食や農業という切り口からナチスという現象を見ていこうと卒業論文を書いたのが、僕の研究のはじまりです」

――なるほど。それにしても、研究の話をしているときの先生、とても楽しそうでキラキラしてますね!

「僕は今の研究が楽しくてしょうがなくて、この仕事を選んで本当に良かったと思っています。ドイツ中をかけずりまわって史料を集めて読むなど、大変なことは多いですが、10回のうち1回くらい、今まで誰も考えていなかったことが浮かび上がる瞬間があって。そういう発見をつなげていくと、今まで見ていた風景が一変するんです。風景が変わって見えると、さらに知らない世界が広がっていく。そういうことが無限に起こりうるという僕にとっては魅力的でたまらないんです

それに、研究を続けていると世界中に友達ができます。まったく違ったところで生まれ育った人たちと、同じ学問に憑りつかれているというただそれだけの理由で出会って、一緒に研究して、議論して、ご飯を食べる。最高に幸せだな、と。まあ、外から見るとオタクの集まりなんですけどね(笑)」

疲弊した社会を結い直す出発点、それが「縁食」

――先生には『食べるとはどういうことか』という著書がありますが、先生は食べることをどのようにとらえられていますか。

「一つは自然科学的な見方です。すべての生き物の排泄物は次の生き物の食べ物だとすると、食べ物は永遠に食べ物として循環していて、食べるということはその地球規模の物質循環に参与することだといえます。

もう一つは社会的なとらえ方で、人間は基本的に誰かと一緒に食べていないと不安なんですね。二足歩行を始めた人類は火で加工した食材の良質な栄養で脳を発達させ、人間らしさを育んできました。しかし火を手に入れるのは簡単ではなく、手に入れた火をみんなで囲んで守る必要があった。つまり、常に誰かと一緒に食べているのがデフォルトだったということです」

――ところで、『縁食論』という本も執筆されていますが、「縁食」とはなんでしょうか。

孤食と共食のあいだにある、ふらっと立ち寄れてふらっと帰れるような食の場を『縁食』と名付けました。たとえば、子ども食堂などがそれにあたります。子ども食堂は、子どもの貧困と孤食の拡大が社会問題となり、急速に普及し始めました。今、子ども食堂などのような縁食の空間が増えているのは、社会が分断して人々が孤立している表れでもあるので、子ども食堂をもっと広めるべきだとは言いにくいのですが、福祉政策としてではなく自治的な縁食の試みが、疲弊した社会を結い直すための出発点になることは間違いありません」

(左)『食べるとはどういうことか』 著者:藤原辰史 出版社:農山漁村文化協会
(右)『縁食論』 著者:藤原辰史 出版社:ミシマ社

――食の歴史といえば、日本の学校給食はどのように始まったのですか。

「日本の学校給食は、1889年に現在の山形県鶴岡市で初めて登場しました。明治維新のあと、近代化を進めるため、すべての子どもたちに教育を与える『学制』という法令ができたものの、農家の貴重な労働力である子どもたちはなかなか学校に行かせてもらえませんでした。そこで、佐藤霊山というお坊さんが、子どもたちが来やすく、親たちが送り出しやすいように、大督寺(山形県鶴岡市)の隣に建てた私立小学校で米と漬物とみそ汁を提供したことが始まりなんです。

このようにして始まった給食ですが、1923年の関東大震災のときには、東京の学校給食の調理場が炊き出しの拠点となりました。また1930年代前半に起こった東北の冷害では、栄養学者の佐伯矩が国の税金での学校給食実施を提言し、子どもたちを救うためのプロジェクトとして給食が始動していきます。佐伯は、貧しい子供だけを救えば貧困のスティグマを与えてしまうため、貧しい子も金持ちの子も全員に給食を与えるべきだとし、それが今でも日本の学校給食の原則となっています」

日本で初めて給食が導入された大督寺にある記念碑

――歴史を知ると給食の見え方が変わりますね!

「そうでしょう。そして、1945年の敗戦でそれまでの学校給食の歴史は大きな変化を遂げます。給食は米とみそ汁からパンと脱脂粉乳に変わって、欧米化していきます。今でも学校給食はかなり輸入食材に頼っているんですが、近年日本食が見直されてきた過程で、給食もやっと米飯給食に戻ってきました」

――歴史と社会と食は密接につながっているんですね。先生が考えるこれからの食はどのようなものでしょうか。

「私が見たい未来は、培養肉やヴァーチャルリアリティ食などではなく、屋根とたくさんのベンチがあるだけの公衆食堂が各地にできて、そこには無料のおにぎりとみそ汁、もしくは豚汁があり、貧しい人も裕福な人も誰でも食べられて誰でもくつろげる未来です。それからもう一つは、すべての学校給食が自校方式になるという未来。その給食は100%地域でとれたものにする。そうすると農業が栄えて地域の食料自給力が上がり、日本の農村が元気になっていく。そういう形の未来を、地味だけど提案したいと思っています」

学校給食の方式

学校給食には、校内で調理する「自校方式」と、給食センターや民間業者で調理して学校に配送する「センター方式」や「委託方式」がある。

――根源である食が変わると社会も変わっていくということですね。

京都市にある北青少年活動センターと妙蓮寺の中道亜子さん(住職)が共同で運営している「おぼちゃん食堂」。藤原先生(左)と一緒に京大生もお手伝い。

京大は自分の価値観を崩して再構築していく場所

――続いて、京大の魅力についてお聞きします。先生は総合人間学部の卒業生でもありますが、京大を選んだ理由は何でしょうか。

「よく言われますけど、やはり自由ですね。『自由の学風』に魅力を感じました。実際、僕が入った研究室は何を研究してもよく、自分がやりたくてたまらないというモチベーションと喜びを持っていればそれをやりなさいというところでした。その代わりできたものへの厳しさは尋常ではありませんでしたが(苦笑)」

――今後の夢や目標もお聞かせください。

「今、少しずつ進めているのが、現代史の概論を書くということです。西洋の白人男性が書いてきた従来の20世紀の歴史ではなく、日本に根差した世界市民的な、そして本当に苦しんできた人たちの目線に立った弱い者たちの世界史を書きたいと思っています」

――では最後に、中高生や京大生に向けてメッセージをお願いします。

「僕は、歴史研究をはじめ、あらゆる学問のモチベーションは不純でいいと思っています。だから中高生の皆さんには、どんなことでもいいので何かに憑りつかれた自分を大事にしてほしい。周りが見えなくなることがあるかもしれませんが、それを怖がらずに深めて、そういう『恋に落ちる』ような感性を守ってほしいですね。あとは『よく寝る!』、睡眠こそが人間の中心です。

京大生には、自分たちが生きてきた社会の価値観が、この世で唯一のものだと思わないでほしい。つまり、それが崩れていく経験を大学でしてほしいということです。京大は、崩れていった価値観をもう一度作り直せる場所なので、そのときに出会った友達を大事にしてください。僕自身も京大へ来て自分の価値観が音を立てて崩れていく経験をし、そこから悩んでいく中でいい友達に巡り合えましたから」

藤原先生の研究室には本棚に収まりきらないほど本が溢れており、研究に対するオタク度が分かるような空間でした(笑)

インタビューが終わって、地球最後の日に食べたいものは何か、と質問すると「納豆ご飯と豚汁と、煮込みチーズハンバーグ……。ちょっと欲張りすぎですね」と笑って答えてくれました。
私たちは毎日「食べる」という選択をしており、そして、食は常に社会と直結しています。普段の何気ない食卓や給食の背景に隠された歴史、社会の繋がりを知ることで、新しい価値観を築き上げられた気がします。藤原先生、ありがとうございました!