ザッツ京大

日常と常識を揺さぶる!?  妖術・呪術・憑依研究のススメ

……こんにちは。「ザッツ・京大」編集部です。

そうです。10月末と言えば。
いまやバレンタイン市場を抜き、大きな経済効果をもたらすハロウィン!

 

……あれ。
どうみても、トリック・オア・トリート! ではなさそうですね。
お菓子をねだる雰囲気、なし!

さて。気を取り直して、これは何の写真かと言いますと。

京都大学には、「妖術」、「呪術」、「精霊憑依」に関わる研究があるのです。

……自分で書いていてなんですが……本当ですか?!

 

妖術、呪術、精霊憑依の研究って、なんですか?

というわけで、今回は、人文科学研究所の石井美保准教授にお話をうかがってきました。
石井先生の専門は「文化人類学」。文化人類学は長期間にわたるフィールドワークが基本で、石井先生もこれまでに西アフリカや南インドで研究を続けてきました。先生はとても穏やかで、「妖術」や「呪術」といった言葉のイメージとは程遠いのですが……。いったいどんな研究なんでしょうか??

 

 

石井先生「私が研究しているのは、いわゆる三大宗教(キリスト教、仏教、イスラーム教)とは異なる人々の「宗教実践」と生活との関わりです。「宗教実践」の例としてわかりやすいのは、私たちの身のまわりにもある「儀礼」です。たとえばお葬式なんかですね。ただ、私が調査してきた西アフリカや南インドでは、より身近な暮らしの中に超自然的な存在との関わりがあるといいますか。さまざまな儀礼が、もっと日常的に行われているんですね」

――「宗教実践」は、「儀礼」で、たとえば「お葬式」。……少しイメージがわきました。それでは、早速ですが、「妖術」や「呪術」、「精霊憑依」の研究とはどのようなものなんですか? ……すみません、実は、つい「おばけ」みたいなものを思い浮かべてしまうのですが。。

石井先生「あ、なるほど(笑)。まず、いわゆる「オカルト」的な表現としての「妖術」や「呪術」と、文化人類学でいうそれらとは違います。文化人類学では、宗教実践は王道的なテーマなんですが、「妖術」、「呪術」、「精霊憑依」というのは、その専門用語なんです。初期の人類学では、ヨーロッパの研究者がアジアやアフリカなどの非西欧社会を訪れて、目にした宗教実践に名前をつけていったんです。「これは妖術」、「これは呪術」というように」

――そうなんですね。少しホッとしたような、残念なような(笑)。では、研究に出てくる、たとえば「妖術」なんかは、どのようなものなのですか?

石井先生「そうですね……たとえば、私がガーナで出会ったのは、「妖術者」と呼ばれる人が、自分が気付かないうちに、不可思議な力を発揮して他者に危害を加えてしまうという現象などですね」

――えっ??

 

妖術の力が向かう先。呪術の相手。そこから見えてくるもの。

石井先生のさきほどの言葉を自分の中で繰り返してみます。「自分が気付かないうちに不可思議な力を発揮して……」。目を白黒させる私に、石井先生は、「ただ」、と穏やかに話を続けます。

ガーナにて。精霊モシに憑依された司祭。

 

石井先生「ただ、その場合の「妖術」は、誰にでも危害を及ぼすことができるわけではないんです。その妖術者の「母系親族」の内部でだけ、その力が働くといわれていて。一方で「呪術」はというと、もっと「意図的に」人に危害を加えるという実践なんです。日本の「丑の刻参り」みたいなものといいますか。そして調べていくうちに、「呪術」は、「妖術」とは違って、「異民族間」で頻繁に起こっていることがわかってきたんです。そうすると、ガーナ南部では、どうして妖術は母系親族の内部でだけ効力をもつのか? どうして呪術は異民族間の実践なのか? という疑問が出てくるわけです。そして、その社会における女性の役割や、昔からの民族同士の関係といった、歴史や政治の問題とつながって、宗教実践と社会との関係性がみえてくるんです

――なるほど。「宗教実践と生活との関わり」ってそういうことなのですね。では、「精霊憑依」はどういうものなんですか? これも、普通の人はなかなか目撃できないものだと思うんですけれど。

石井先生「そうですね。例えば、憑依の始まり方なんかも、いろいろなパターンがあるんです。一番ベーシックなのは、儀礼の場で――つまり舞台装置があるといいますか――人々が太鼓を叩いて、歌を歌って。精霊に仕える司祭が踊りを踊って。その中で、回転運動とともに憑依が起こるんですけど、こう、ふわーっとなって。ただ、これは訓練を積んだ司祭の場合です。突然憑依された場合は、「コントロールできなくて走り回っちゃう」みたいなことも起こります」

 

「南インドでは「憑坐(よりまし)」が世襲の職業としてある」とのこと。領主に「託宣=お告げ」を述べているところ。

 

フィールドワーク、それは身体を通した理解です。

話を聞いていると、先生の研究は、なんだか探検のようにも思えてきます。文化人類学では「フィールドワークが研究の基本」とのことでしたが、フィールドワークの重要性って何なのでしょうか?

南インドのフィールドワークには当時4歳のお子さんを連れて行かれたとのこと。途中から村落内に家を借りて旦那様も一緒に家族全員で暮らしながら研究されたらしいです(!)。(左)通訳などお世話になったアクシャヤさんと。(右)その8年後、アクシャヤさんの家族とともに。

 

石井先生「そうですね……ひとつは、現地でその土地の人たちと長い期間過ごすことで、自分の身体感覚や意識が変わっていくことですね。同じ言葉を話して、同じご飯を食べて、同じ生活をする。すると、たとえば、独り言も、頭の中の考えもいつの間にか現地の言葉になっているんです。たまに街に出てショーウインドウに映る自分を見て「こんなところに外国人がいる!」と本気で驚いたり

――そんなにですか?!

石井先生「はい(笑)。あとは、思いがけない出来事や人に会えるということ。そして、調査のはじめの頃は、儀礼も親族関係も経済活動も、それぞれがバラバラに独立してみえるんですね。でも、現地で実際に触れながら調べていくうちに、ある時、それらが一気につながって、完全なものではないんですけど、論理性が見えてくるんです。今は、たとえばスカイプでインタビューをして、WEBで情報を集めていけば、似たような研究トピックや話題を見つけることは可能かもしれません。でも、フィールドにいるのといないのでは、その身体的な理解の深度は全く違うと思います」

――「身体的な理解とその深度」ですか。さすがにすごい説得力です。。ちなみに、フィールドワークに必須の道具ってあるんですか?

石井先生「必ず持っていくのはフィールドノートですね。気づいたことをとにかく書きとめていきます。このノートが全ての基礎になって、後でいろいろなことを思い出させる鍵になるんです。これがもしなくなったら本当に困ります(笑)」

――確かに、先生の研究室のホームページにも、描かれたスケッチが掲載されてました。素敵な絵だと思ったのですが、あえて写真でなくて絵で描く理由は何かあるんでしょうか?

石井先生「もちろん写真も撮りますよ(笑)。ただスケッチの方がディテールを自分の中に取り込めるというか――描くとなると細かいところまで自分で押さえていかないと描けないじゃないですか。「ああ、ここはこういう形になっているのか」と。だから、後で感覚として思い出せるんです。大きさだったり、重さだったり、質感だったり。……これも、やっぱりフィールドに行くことで得られる「身体感覚」ですね。自分の身体を通して理解していること、感じとっていることは、きっと別のものを見たときにも、その理解に役立っていると思うんです

「パソコンは持っては行きますけれど、電気がなくなったら、もう使えませんから(笑)」。フィールドノートには、そのときに見たことや考えたことが、生き生きと記録されています。

 

その憑依、「本当ですか?」……よりも大切なこと。

宗教実践、フィールドワーク、知らなかったことばかりです。そのお話を聞きながら、どうしても聞きたいことが。……あの……「精霊憑依」なんかは、先生から見て「本当に憑依している!」と思うものなのでしょうか? それとも「職業としてやっている」みたいな感じなのでしょうか? 失礼かもしれないと思いながら恐る恐る質問したのですが……。石井先生はいたって普通に答えてくれました。

 

ガーナにて。左は石井先生。北部の民の精霊に憑依された司祭から、コラの実を分け与えられているところ。

 

石井先生「うーん。そうですね。それは、時によるのかなと思います。……特にガーナの場合、司祭さんたちは憑依されている間、まったく記憶がないというんですね。実際、普段のふるまいから、話し方や語彙なんかも変わるんです。ただ、それがどこまで「本当」なのか、「演技」なのかは、こちらが判断できないことなんです」

――そうですよね、確かに本当のところは……わかりようがないですよね。

石井先生「憑依とか呪術について、「それ自体が何なのか」ということはいくら研究してもわからないと思います。大事なのは、そうした一見奇異にみえる宗教実践を「完全にわかろうとする」ことだとか、あるいは、それが「本当なんだと言う」ことが目的なんじゃなくて。そうした現象を完全に理解することはできないけれど、確かに人々に作用を及ぼしている、ということを知ること。そうすると、自分たちの「いつもの日常」だけが、すべてではないことに気づくというか。逆に「自分たちの日常を疑う」視点ができてくると思うんですね」

――確かに、精霊憑依があることは自分たちの日常、常識ではないけれど、逆に考えれば「精霊憑依がない日常、常識はわからない」という見方も相手側からするともちろんありますよね……。しかし、こうして先生の話を聞いていると、なんだかいわゆる「常識」とか「当たり前」が揺らいでくる気がするのですが。。

石井先生「自分にとっての「あたりまえ」を超えるものに触れると、自分自身や自分の社会を、それとは異なるものとの関係から考えなおすことができるんです。それが文化人類学のひとつの役割だと思います。だからこそ、私たちに「この現実だけではない」という、別の日常や現実の可能性に気づかせてくれるといいますか。それに、たとえば「精霊憑依」のような実践が、一見、非現実的なものに映ったとしても、実はその根底には、人としての同じような悩みや喜怒哀楽が潜んでいたりするものです。その「変わってるな、自分とはちがうな」という「差異」と、「あ、一緒だな」という「共通性」を知っていることは、お互いがお互いを理解していくうえで、重要になってくると思います」

 

南インドにて。年長者に化粧を施される従者役の少年。

 

子どもだから知っておきたい! 別の場所。別のやり方。別の視点。

なんだか、お話を聞いていると、文化人類学も先生の研究も、大学よりももっと早い時期――それこそ中学校や小学校くらいから教えてもらえたらなんて思ってしまいました。「この場所、この現実だけじゃない、こういう考え方もあるよね」というのは、早くから知っておくのは良い気がするのですが。

南インドにて。村で遊ぶ子ども。

 

石井先生「そうですね。子どもの世界は、また異世界ですしね(笑)。……ただ、もしも自分が子どもの時に人と何か違う――たとえば――自分がもしも、性同一性障害だったとしたら、すごく悩むと思うんですだけれど、そういうのもありだよね、違う生き方だってあるものね、みたいに、学問としての人類学とまでいかなくても、その下地のようなもの、さまざまな視点があると助かる部分もあるんじゃないかなと思います

――確かに、今、目の前にある場所や考え方と違うものが確かにある、いろいろな形がある、そう知っていたら、救いになることってある気がします。

石井先生「それに、学校教育の中では、「こういう風に、ふるまわなければ」みたいに方向づけられていくことも多いと思うんです。男性らしさとか女性らしさとかもまさにそうだと思うんですけど。でも、それは本来的な意味で「自然」のものではないし、誰しもが「身につけていく」ものなんだとわかると、そうじゃない方法もあるんだとわかりますよね。そうすると、たとえ何かあっても、とらわれずに抜け出せることがあると思うんです。風穴を空けるみたいに。別の方法をとることで、別の「人」になることもできるという視点を、わりと若いうちから持っているのは良いと思うんです」

――なるほど。先生の「風穴」という言葉は、なんだかしっくりきます。。ちなみに、子どもや学校教育という話が出ましたが……例えば、大学と小中高の学校を比べての「学び」など、何か知っておいたほうが良いことってありますか?

石井先生「そうですね。……小学生のころまでは、自分が疑問に思ったことをしつこく追究したりとか、極めようとしたりすると思うんです。一見しようもないことだとしても(笑)。でも中学生、高校生くらいになると課題が多すぎて、そういう時間がなくなっちゃうと思うんですね。ちょっとした疑問とか、違和感とか、興味を押し殺して、別のことをしないといけない。でも、大学になると、むしろ小学校くらいまでにもっていた、その「しつこい疑問」とか「衝動的な興味」が大事になってくるんです。大学ってそのための場所で、道具も、人もそろっているんですよ。だから、その最初の疑問や興味の芽を大切に持ち続けてほしいです

 

ガーナにて。精霊憑依の儀礼を楽師が盛り上げる。静かな中で、ひっそり行うわけではありません。ここでは精霊は大きな音や踊りの中にやってくるのです。

 

どこまでも揺さぶる視点。私たちも他の者になっている?!

石井先生の研究の「妖術」、「呪術」、「精霊憑依」。話を聞いて、今も不思議な気持ちはたくさんあります。でも、その不思議さは、今、自分がそういう宗教実践を日常や常識とする社会に暮らしてないだけのことかもしれない、そんな風に思えてくるのですが……。

 

南インドにて。パンバダの踊り手。パンバダとはコミュニティのひとつ。

 

石井先生「そうですね。……それに、さきほど「ふるまう」といいましたけど、私たちは、よく「ふるまう」という言葉を使いますよね。実は、坂部恵さんという哲学者の方がおもしろいことをおっしゃってるんです。「ふるまう」――この言葉は、もともと「ふり」と「まい」から成っている。そして、神々に捧げられるものが「まい」なんだと

――「~した振りをする」の「振り」と、神様に捧げる「舞い」ですか。

石井先生「そうです。そう考えると、精霊憑依なども、「本当の自分」というものがあって演技しているというよりは、そもそも憑依のように、神々や他者との関係性の中で、「あるふるまいをする」のが、人間の本性ではないだろうかと思うんですね。つまり、私たちの「社会性」のようなものといいますか。だから……逆の見方をしてみると、精霊憑依というのは、何も特別に奇異なことをしているというのではなくて。むしろ、私たちの普段意識していないような「社会的ふるまいの原型」であり、それが「より劇的に表現されたバージョン」のようにも考えられるのではないかと思うんです」

――……すみません……ゾクっとしたんですが。。……社会性、社会的な「ふるまい」、ですか。つまり、今の日本社会で、朝早くから起きて、学校なり、会社なりに行って、きちんと勉強をする、仕事をする。……そういったことも、自分ではコントロールできない、例えば「社会」や「システム」に対して、「無意識にふるまっている」のかもしれないと。。でも、その「無意識のふるまい」って、別世界とのこととして聞いていた「精霊憑依」と、根っこの部分では何が違うんだろうって。

石井先生「ええ。そうですよね(笑)。多かれ少なかれ、私たちも、何かしら「他者」になっているというか。そうでないと、生きられないところがありますよね

――先生、穏やかな笑顔で、また。。私の「常識」はもう、ぐわんぐわんに揺れていますから。。

 

最後まで、丁寧にお話しくださった石井美保先生。今後は、インドで自然遺産に指定されている西ガーツ山脈で、「自然と人間の関係」を研究したいとのことです。「人間と他の種や自然との関係がどうなっていくのか」という問いは今、哲学や歴史学などいろいろな分野で議論されているテーマとのこと。「こういう研究を進めていくと、じゃあ日本ではどうなのか、私たち人間はどうあるべきなのか――きっと、つながってくると思うんですね」。

「西アフリカと南インドにおける呪術・宗教実践に関する現代民族誌研究」で第14回日本学術振興会賞受賞。
石井美保研究室:https://www.mihoishiianthropology.com/

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