No.17

update.2017.03.06

幕末の歴史を紐解く ものすごい建物「尊攘堂」、の巻

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ザッツ・京大編集部ぜよ。
今回は少しビシッと背筋を整え、幕末の志士たちの遺志を紐解いていきたいと思います、、、って、皆さんご存じでした?
幕末の歴史てんこ盛りのすんごい建物が、こんなに身近な京大キャンパス内に現存してたなんて!!!!!
これを読んだあなたは、この瞬間から幕末史の目撃者となるのですーーーー。
(ちょっと大げさかな、、)

時計台があるキャンパス西側、ひっそりと佇む館「登録有形文化財 尊攘堂」

本部キャンパスをゆっくり散策してみると、まるでそこだけ時が止まったかのように西の端にひっそりと建つ館「尊攘堂(そんじょうどう)」が現れます。(こんな施設があるって学生さんも知らないのでは…?)とか思いつつ、建物をじっくり眺めてみると、いかにも和風な鼠色の瓦屋根なんだけれども、窓はがっつり洋風で、明治維新を彷彿とさせる、いわゆる擬洋風建築であることがわかります。

この建物にどんなヒストリーが?

歴史を紐解いてみると、なんと「尊攘堂」という名称は、かの吉田松陰が京都に建てようとしていた学校の名に由来するそうで吉田松陰の門弟であった品川弥二郎が松陰の遺志をくみ、維新における尊攘の功ある人々を顕彰するため創設された建物こそが「尊攘堂」なのだそう。もともと品川弥二郎が1887(明治20)年に高倉通錦小路に創設していたそうですが、彼の死後、京都帝国大学に寄贈された松蔭の遺墨類をおさめるため1903(明治36)年に建造。時は流れ1998(平成10)年、国の登録有形文化財として指定されています。…ものすごい建物じゃないか! こうなったら気になりますよね?堂内。ハイ、今回、普段見ることのできない尊攘堂の内部と、現在そこに保管されている遺物の数々、さらに! かつて尊攘堂に寄贈・保管され、今は附属図書館の地下に眠る貴重な維新の遺品コレクション(※一般非公開)も紹介しちゃいますよ!

「尊攘堂」ってどんなところ?

(左)1909年頃の尊攘堂(写真向かって左の建物)とその周辺風景。右側にあるのは初代の附属図書館。現在の教育学部あたりですね。(「京都大学百年史写真集」より)、(右)尊攘堂外観(「尊攘堂遺墨集、1928.口絵」より)

品川弥二郎が寄贈した松陰の遺墨類は、なんと千数百点!

コレクションの中核となっているのは、もちろん松陰の書簡・上書・稿本等の遺墨や類縁資料がほとんどですが、松下村塾(松陰が山口県萩に設立した私塾)に集まった高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、山県有朋といった名だたる長州出身の志士たちの墨跡・遺品も豊富。現在、それらの遺墨類は附属図書館に移され、現在の尊攘堂は文化財総合研究センター資料室として活用し、大学構内の発掘調査により出た遺物を展示しています。
で!今回は、それらのコレクションの一部も紹介しちゃいます!

長い眠りから目覚めた、尊攘堂の石碑とは・・・?

ところで。今では、建物正面に向かって右側にある「尊攘堂」の石碑(写真右下)、1940年10月に皇紀2600年を記念して建てられ、1945年8月21日に撤去されました。 石碑の正面に「尊攘堂」、側面に「皇紀二千六百年記念」と刻まれていることから、「尊攘」「皇紀」の記述がGHQに問題視されることを当時の人々は危惧したのでは?と推測されています。その後、長い間所在不明となっていましたが、2013年に大学構内で発見されました。
研究センターでは、この石碑は尊攘堂の沿革を知る上で重要な文化財であるとして、2014年12月に、元あった場所に近い位置に復旧したのです。

「尊攘堂」内部に潜入!

現在では文化財総合研究センター資料室として、大学構内における埋蔵文化財調査成果の保存・展示目的に使用されている尊攘堂。常時公開していないので、気軽に中に入ることは出来ないのですが・・・今回は編集長がその内部を徹底的にご紹介します!

今回、尊攘堂を案内してくださったのは・・・
3人目の「京大発掘マスター」こと、千葉豊先生です!

日本考古学(縄文時代)を専門とする千葉先生。
尊攘堂館内の案内人として、一般の方向けにもわかりやすいレクチャーを行っています。

尊攘堂内部の貴重な遺物、見せてください!

建物の中に入ると、そこにはまるでタイムスリップしたかのようなレトロな空間が広がります。まず目に飛び込むのは、華やかな唐草装飾が印象的な大ぶりの照明。中央広間の天井をめぐる漆喰装飾がステキな雰囲気を醸し出しています。
そしてズラリと並ぶさまざまな展示物の数々。これらはすべて、京大構内の発掘現場から出てきた遺物たちです。

尊攘堂内部

京大構内の発掘現場から出てきた遺物は、まず発掘直後の仕分けで考古遺物かどうか判断し、分析・データ化して記録した後、重要と思われるものはセンター内地下にある資料保管室か、ここ尊攘堂で保管することになっています。尊攘堂での保管は、公開を念頭において、出土遺物の中から選りすぐったものを時代順、テーマ別に収納展示しています。

縄文時代や古墳時代など、古代の遺物がたくさん!
京都大学北部構内一帯は北白川追分町遺跡にあたり、縄文時代の遺跡を多数発掘しているため、たくさんの遺物が発見されています。また、昭和56~57年にかけての吉田食堂新営に伴う発掘調査では、古墳時代中期の方形墳が5基も発見されました。

  • 縄文時代の土器や石器など。特に縄文時代の土器は、北部構内の北白川追分町遺跡を中心に多数の出土があるそうです。
  • 古墳時代の須恵器や土師器など。現在まで吉田南構内においてみつかった古墳時代の方形墳は9基にもおよぶそう!

そのほかにも、弥生時代の水田跡 、奈良時代の竪穴住居、平安時代の梵鐘鋳造遺構 、鎌倉時代の邸宅跡・・・など、さまざまな時代の足跡の証となる遺跡が構内各所で多数発掘され、同時にたくさんの貴重な遺物が発見されているんです!

近世・近代の遺物には、「土州屋敷」の存在を明らかにするものも。
慶応4(1868)年刊の「改正京町御絵図細見大成」には、北部構内にあたる場所に「土州屋敷」(土佐藩白川邸)が描かれています。 1992年度の発掘調査では、この幕末土佐藩邸の堀や藩邸内の井戸がみつかり、堀からは大量の桟瓦が出土しました。これらは刻印から土佐で生産されたことがわかっています。

  • 江戸時代末期の刻印をもつさまざまな桟瓦
  • 桟瓦の刻印(拓本)

土佐藩白川邸の堀跡からは、向かって左側に袖をもつ通常の桟瓦(右桟瓦)に対して、右側に袖をもつ左桟瓦が4割を超える比率で見つかっています。

  • 向かって右側に袖をもつ左桟瓦。その刻印から、高知からきたものだとわかります。
  • 高知にある古い武家屋敷の屋根。同じ屋根面の中央に1列平瓦を用いて、向かって左に左桟瓦、右に右桟瓦を使用する高知独特の葺き方。屋根面の中央から左右へ向かって同時に瓦を葺けることから、作業効率を高めるという理由が考えられるそう。

病院構内は、文人墨客が集うサロン的エリア「聖護院村」だった!
また、現在の病院構内のあたりは、江戸時代には「聖護院村」の北辺にあたり、江戸後期から幕末の聖護院村は文人墨客が集うサロン的なエリアだったそう。大田垣蓮月、富岡鉄斎をはじめ、名だたる画家や歌人、書家などが、現在の熊野神社周辺に点々と居を構えていたそうです。そのため、それら文人にまつわる貴重な遺物も多数発掘されています

【蓮月焼】

中でも、幕末の歌人、大田垣蓮月(1791~1875)が製作した蓮月焼はとても人気の焼き物だったそう。
大田垣蓮月(1791~1875)は、二度にわたる夫との死別、4人の子を幼くして亡くすなど、恵まれぬ半生を過ごしながら33歳で出家し蓮月と号しました。絶世の美人と知られた蓮月はひっきりなしに言い寄ってくる男に心身疲れ、「いっそのこと老婆になりたい」と自ら歯を抜き血まみれになって容貌を変えて貞操を守ったことから、京都では理想の女性像ともされているとか・・・。すごい伝説ですね・・・。
蓮月焼は、その蓮月が自詠の和歌を釘彫りした茶器で、 当時の文人墨客の煎茶趣味と合致して名声を博したとされています。

  • 向かって右側に袖をもつ左桟瓦。その刻印から、高知からきたものだとわかります。
  • 高知にある古い武家屋敷の屋根。同じ屋根面の中央に1列平瓦を用いて、向かって左に左桟瓦、右に右桟瓦を使用する高知独特の葺き方。屋根面の中央から左右へ向かって同時に瓦を葺けることから、作業効率を高めるという理由が考えられるそう。

【乾山焼】

初代乾山とされる尾形乾山は江戸中期の陶工・画家で、尾形光琳の弟。野々村仁清に学び、京都で鳴滝窯を開き、晩年は江戸入谷に窯を築いたとされています。享保16(1731)年ごろ、尾形乾山が江戸へ下向したのち、京では養子の尾形猪八が2代乾山を名乗り、 聖護院門前で乾山焼を継いだことが初代乾山著「陶磁製方」に記載されていました。 2001(平成13)年の発掘調査で、乾山銘をもつ陶片や窯片を多数発掘。文献にみえる「聖護院窯」が実存したことを示す考古資料といえます。

  • 縄病院構内で多数発見された乾山焼。いずれも一部であることが惜しい!
  • 左から二つ目の茶碗の裏には、はっきりと「乾山」の銘が。

乾山焼発掘の影にあるエピソード

その当時、乾山研究をしていた研究者がいました。国際基督教大学(ICU)のリチャード・ウィルソン先生(乾山焼研究の第一人者)。千葉先生たちの発掘チームが病院構内の発掘調査をしていた頃、初代乾山が開いた鳴滝の乾山窯跡の調査に参加されていたウィルソン先生が発掘現場に見学に来られて、「このあたりに二代乾山が工房を構えたことが文献に書かれている!」と教えてもらったそうです。最初は半信半疑で、発掘中にはその存在を確認することはできませんでしたが、整理調査に入って遺物の洗浄をしているときに・・・なんと「乾山」という銘のある陶片を発見! ウィルソン先生に電話すると翌日すぐに調査事務所に駆けつけられ、先生が二代乾山の様式と考えていた陶片や窯道具を確認。文献の記載を、考古学の発掘資料が裏付ける重要な発見となった貴重なエピソード。研究者同士の連携もあってこその成果ですね!

三高・京大関連遺物の中には「総長印」の湯飲みも!
発掘調査では、第三高等学校や帝国大学時代の遺物もたくさん出土しています。 「第三高等学校」と呉須で筆書きした茶碗は吉田南構内、それ以外は本部構内から出土したもの。 図案化された大学マークをもつ土瓶・茶碗は、底に「本」の銘をもつことから本部で、 「法」のマークをもつ土瓶は法学部で使用されたことを示しています。 これらは、地元・清水焼の窯元による注文生産品だそう。部局ごとのオーダーメイドなんて、今では考えられないですよね!

本部構内・吉田南構内で発見された大学マーク入りの急須と湯飲み。「総長」マーク入りの湯飲みも! 一番右は、ハンマーをクロスさせた図案や出土した地点から、工学部の特注品とみられます。

その他にも、尊攘堂には、さまざまな貴重な遺物がたくさん展示されています。
尊攘堂は通常一般非公開ですが、見学希望者は事前に文化財総合研究センター事務室にお問い合わせしていただければ見学可能だそうです
(Tel:(075)753-7691 受付:平日9時00分~17時00分、見学は原則平日のみ可)
京大構内から目覚めた歴史の数々に触れに来てみてはいかがでしょうか?

かつての尊攘堂にあった、維新時代のコレクションをちょっとだけご紹介!

もともとは、吉田松陰の門弟であった品川弥二郎が寄贈した松陰にまつわる遺墨類が保管されていた「尊攘堂」。
それら貴重なコレクションは、今では附属図書館の地下で大切に保管されています。残念ながら、どれも一般非公開。
「その千数百点にもおよぶ松陰コレクション・・・ほんの少しでもいいから、見てみたい・・・!」
・・・という貪欲な広報Bのお願いにより(ありがとうございました)、今回特別にその一部を見せていただきました!

歴史好きにはたまらない!? 維新にまつわる貴重な品がズラリ!

まずはこの二体の木像からご紹介。左から、品川弥二郎さん、吉田松陰さんです。

(左から)品川弥二郎木像、吉田松陰木像。いずれも疋田雪洲作

尊攘堂所蔵品の寄贈にあたって、尊攘堂保存委員会は、10月27日の松陰忌と、2月26日の品川忌には、尊攘堂を借用して慰霊祭を営むこと、さらに所蔵品を展示して一般の人でも見ることが出来るよう京都帝国大学に申請しました。以後20数年、協定どおり年2回の祭典は催されていましたが、大正10(1920)年になって、年1回秋の小祭と3年に1回の大祭に変更され、昭和19(1944)年まで展示会は開催され、例祭は翌20年が最後となりました。

当時の尊攘堂の例祭の様子。例祭では、吉田松陰と品川弥二郎の木像が安置されました。(「尊攘堂誌、1928.口絵」より)

まだまだあるんです!どんどんご紹介しますよ~!

「坂本龍馬書状」

「坂本龍馬書状」は、慶応元年(1865)12月29日、下関に滞留中に龍馬が長府藩士印藤聿に送ったものです。まず、乙丑丸の契約改訂のために山田宇右衞門、中島四郎等が来たことを述べ、事件解決の自信、木戸孝允が黒田清隆と諸隊の俊英とともに上京したことを記し、孝允から龍馬に上京してくれと言ってきたことを報じています。そして、龍馬自身慶応2年(1866)正月早々に上京するので、同行の士を求めると述べています。この手紙の後、正月元旦に印藤聿の紹介で長府藩士三吉愼藏と相会し、正月10日愼藏、土佐藩士池内藏太、龍馬社中の寺内新右衞門(新宮馬次郎の変名)を伴って、海路上京の途に就いたのです。


写真中央下は、龍馬の直筆サインだそう!

「薩長芸三藩盟約書草稿」

「薩長芸三藩盟約書草稿」は、薩(鹿児島)、長(山口)、芸(広島)三藩が武力倒幕に向けて盟約を結んだ際の盟約草稿です。この盟約書は維新の三傑といわれる大久保利通(文政13年(1830)~明治11年(1878)鹿児島藩士)の自撰自筆。
慶応3年(1867)9月8日に京都で大久保利通、西郷隆盛、品川弥二郎、広沢真臣(長)と辻将曹(芸)が会して決盟され、この盟約が成立して、ついに討幕の内勅が下され王政復古の端緒が開かれました。
維新史上に貴重な地位を占め、その価値は極めて大きいのだそうです。

「松下村塾一燈銭申合帳」
「一燈銭申合帳」は、吉田松陰の没後、門下生が写本を作り、その筆稿料を蓄積し他日のために備えようしたもので、趣意書と門下生それぞれの実績を記したものです。大部分が久坂玄瑞の筆。表紙に安政と書いたのを訂正し、文久辛酉12月朔日と記しているように、文久元年(1863)12月のもの。


門下生の名の中には、品川弥二郎の名前も。(写真中央下)

「奇兵隊日記」
「奇兵隊日記」は、高杉晋作らが創設した山口藩奇兵隊の、元治元年(1864)英仏米蘭四国軍艦下関砲撃や慶応2年(1866)小倉戦役等における活動を記録した原本。

  • 全29冊にもわたる奇兵隊日記。(第25、第26冊欠)
  • 奇兵隊が結成された文久3年(1863)6月の記録です。

一般非公開の貴重資料は、ネットでも見ることができます!

これら貴重な資料は、一般非公開・・・あら残念。ですが!附属図書館の「京都大学電子図書館 貴重資料画像」では、これら貴重資料をネットで閲覧することが出来るんです!(ネットがある時代に生まれてよかった)今回ご紹介した「維新特別資料文庫」のほか、国宝「今昔物語集」や重要文化財40点をはじめ、約4,000点もの貴重な資料がインターネット上で公開されています。
ぜひネットで、維新の歴史に触れてみてください!そう、ネットで!

  • 京都大学電子図書館 貴重資料画像

http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/index.html

[取材を終えて]

まさかキャンパス内に明治維新の貴重な資料が眠っていたとは…。どうやら京大には、編集長でもまだまだ発掘しきれていない、たくさんの歴史的にも学術的にも価値のあるお宝が隠れているようです。歴史好きの広報Bとしては、もう、興奮を隠せないものばかりでした。こんな施設が学内にあるなんて、不思議でたまらない…まさにザッツ京大。他にもこんな施設があるのか、 ザッツ編集部の探索は続きます!