実は内向的な文学少年だった!?日本人初のノーベル賞受賞者、湯川秀樹博士の原点に迫る常設展示がオープン!

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皆さんは、京都大学基礎物理学研究所 湯川記念館をご存知でしょうか?
京大で、物理学、湯川といえばもちろん、湯川秀樹博士。京都帝国大学出身であり、日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川博士の名を冠したこの記念館で、今月(2021年7月)19日から新しく常設展示がオープンしました。今年は湯川博士没後40年にあたります。
はたして、いったいどんな施設で、どんな展示が行われているのでしょう。

湯川記念館史料室委員会のメンバーのお二人、元基礎物理学研究所所員の小沼通二先生(慶應義塾大学名誉教授)と科学史がご専門の小長谷大介先生(龍谷大学経営学部教授)、さらには京都大学基礎物理学研究所図書室主任の中川美葉さんにご紹介いただきました!

左から小沼通二先生、中川美葉さん、小長谷大介先生。

 

著作に出てくる本が目の前に!? 湯川家からの寄贈書に興奮…

――先生方が委員会のメンバーだという湯川記念館史料室というのは?

小沼先生
史料室は1979年にできたもので、私は立ち上げから関わっています。湯川先生は物を捨てずに大切にしていた人なので、研究に使った書籍や文献はもちろん、手紙から日記から手書きの原稿まで、4万点以上が残っています。その整理や保存・分析をして学内外の研究者などに活用してもらえるようにしているのが史料室です。史料室委員会のメンバーで基礎研元所長の九後太一さん(基礎研特任教授)も熱心です。中川さんは図書室の職員ですが、今回の常設展の発起人でもあります。

中川さん
2年前の春に人事異動で基礎研の図書室に赴任したんですが、最初に小沼先生にお会いしたとき、「湯川家からこのたび、大量に本が寄贈されたから受け入れてください」と言われたんです。一方で、「湯川先生はこんな本も書いているんだよ」と手渡してくださったのが、自伝の『旅人』とエッセイの『本の中の世界』でした。

それらには湯川先生が小さい頃からどんな本を読んできたかが数多く書かれているのですが、本の受け入れ作業をしていると、次々と自伝に登場する本が発見されたんです!「この本に書かれている実物がこれか!」と驚いていたのですが、さらにその夏、自伝の中に何度も出てきた有朋堂文庫の全巻120冊セットが、1巻の欠けもなく専用の書架ごと寄贈されたときに私の気持ちは固まりました。「一人で感動している場合じゃない。湯川先生によるエピソードと、そこに書かれた本を並べて展示すれば面白いのではないか」と。すぐに小沼先生と九後先生、小長谷先生に相談したところ、「いいですね!」とご賛同いただきました。

今回の展示のきっかけとなった、湯川先生の自伝『旅人』とエッセイ集『本の中の世界』

全120巻が揃っている有朋堂文庫

 

中川さん
具体的に常設展をしようと4人で話し始めたのは、昨年の夏頃から。11月の史料室委員会で決定し、本格的に動き出しました。湯川先生が幼い頃から日常的に読んでいた本がここにあるというのが発端なので、タイトルも『湯川秀樹と読書 ―ノーベル賞物理学者の原点―』に。この展示づくりは、先生の著作物のどこを引用して、何を展示するかというセレクトの作業でした。著書には、科学者が揺れ動く物理学の最前線に挑んでいくのはより普遍的な法則を見出し、永遠の静寂の世界を求めるからではないかとあります。また、本を読んでいるうちにいつのまにか本をはなれて自分なりの空想を勝手に発展させることができたら大いに楽しいことだ、と記されています。

――本好きだった少年が、ノーベル物理学賞を受賞するまでの軌跡がわかるんですね。

湯川先生の魅力満載の常設展示エリアへ!

 

天才物理学者の一大決心、「九月中庭球絶対ニヤラヌ」

中川さん
順路は廊下の手前からです。プロローグと略年譜に始まり、「書物との出会い」というセクションでは、小学校時代の同級生の回想を皮切りに、幼少期からのストーリーを時系列に並べています。

――「湯川さんが物理学者になるなんて、考えてもみませんでしたわ。多分、文学の方面にでも進まれるのではないかと思っていました」とありますが。

小沼先生
『旅人』に出ています。ノーベル賞受賞の翌年、一時帰国時に行われた同窓会での会話です。その同級生がここにある写真にも写っているんですよ。

いずれのパネルも『旅人』や『本の中の世界』など、湯川先生の著作から言葉が引用されている

 

中川さん
箱庭遊びが大好きだったという内向的な少年で、お母さんがさりげなく置いておいた『子供之友』などの雑誌をよく読んでいたようです。『立川文庫』など子どもたちが好むような少年ものの本は友だちから借りていたようです。

――「真田十勇士」とか「猿飛佐助」とかって書かれていますね。

小沼先生
こういう本を貸してくれた友だちが豆餅で有名な「出町ふたば」の息子さん。彼も同窓会の写真に写っていますよ。

――著書に出てくる本や人たちが続々と! 照らし合わせると面白いですね。

小学校の上級生頃、発行されると熱心な愛読者になったという雑誌『赤い鳥』

 

中川さん
読書世界はさらに広がって老荘思想に出会い、次に哲学、そして物理学へとつながっていった様子を、「濃霧の中に目標を探して」というセクションで紹介しています。丸善の物理学書の棚で見つけたライへの『量子論』がどの小説よりも面白かった、今日までの50年を通じて1冊の書物からこれほど大きな刺激、激励を受けたことはなかったということも、著作に書かれていました。

小沼先生
アインシュタインの相対性理論に続き、量子力学が発展していったのが1920年代。その頃に高校から大学へと進み、すでに出来上がったものではなく、世界中で動いている最新の物理を独学で勉強したわけです。一方で、中国の哲学からヨーロッパの哲学にも興味をもち、大学の最終学年だった3年次か翌年には毎週、文学部へ西田幾多郎先生の講義を聴きに行くくらい、のめり込んでいたのです。物理学者にもいろんなタイプがいますが、湯川先生は根幹がどうなっているかを考え抜くスタイル。その根底には哲学があったわけです。

湯川青年が高校、大学で学んでいるころ、量子力学は大きく変動している最中だった

 

小長谷先生
「物理学の最前線へ」というセクションは、大学卒業前後に、どういう出会いや学びがあったかを紹介しています。たとえばハイゼンベルクやディラックといった量子力学の科学者が、1929年に京都帝国大学に来たんですが、そのときの講演に湯川先生も参加し刺激を受けます。そして「相対論的な量子力学を発展させること」と「量子力学を原子核に関する諸問題に応用すること」という二つのテーマを物理学研究の目標として定めますが、その決意もノートに書かれていました。

――「自己ノ全力ヲ自己ニ最モ必要ナル事柄ニ集中セヨ」「新シキ時代ノ代表者トナレ」と。かっこいい!

小長谷先生
さらには自分の戒めを毎日見られるように、紙に書いてノートの間に挟んでいたんですよね。表には「原子核、量子電気力学ノコトヲ 一刻モ忘レルナ」。裏を見ると…。

――「明日カラ、夕食後モ学校ニ居ルコト」「九月中庭球絶対ニヤラヌ」 とても人間味にあふれていて、親近感がわきますね。

若き日の湯川先生が自らにしたためた言葉。志の高さと人柄が感じ取れる

中川さん
インパクトがありますよね…!何気ない日記の中には、「四面楚歌、奮起せよ」という言葉も書かれていて、当時の葛藤が伺えます。

小長谷先生
1934年の5月なので、ノーベル賞の論文執筆の半年前ですね。

小沼先生
まだ先が見えない、誰も歩いたことのない道を切り開こうとしていたので、苦悩の日々が続いていたんですね。

展示を解説する小長谷先生

 

今だからこそより響く、湯川先生からのメッセージに触れてほしい

中川さん
やっと光明が見えたかなというところで、元所長室である湯川記念室に入ってもらうと、ノーベル賞の関連資料を展示しています。

――ようやく霧が晴れた! こちらにある書籍もすごい量ですね!

昔の所長室(現在の湯川記念室)に入ると、大量の本が! アメリカ滞在時に購入した書籍や物理関係の書籍に加え、文学書、哲学書、美術書など、興味の幅が広く、見ているだけでも楽しい

中川さん

ここでまた、「本の中の世界」に戻り、老子荘子や西洋哲学、近松浄瑠璃など、好きだった本にまつわるエピソードを紹介しています。老荘好きだったのは付箋の量でもわかりますね。
そして最後は、まさに「読書の楽しみ」「科学者と読書」という湯川先生の考えを表わしたパネルです。湯川先生が本、読書、そしてそれによって育まれる想像力を、いかに大切に思っていたかが読み取れます。

複数枚挟まれている付箋は、湯川先生自身によるもの。若い頃は書籍に直接書き込んでいたが、後々も新鮮な感覚で読めるよう、だんだん付箋に書き込むようになったのだとか

――確かにそのとおりですよね…。展示の準備が進むにつれて、湯川先生のイメージって変わりました?

中川さん
変わりました変わりました! 私はゼロから入っていますからね。湯川=日本最初のノーベル賞=天才、といった典型的なイメージしかありませんでしたが、内向的な文学少年だったというのがまず意外でしたし、色々な悩みと格闘しながら成長していく過程に親近感さえ覚えました。

――この常設展を観覧しただけでも、意外な発見がいっぱいありました。

中川さん
湯川先生は昔の偉い人、というイメージを覆すような、今でも通じる…というより、今だからこそより響く、湯川先生からのメッセージがたくさんあるので、展示を通して読み取っていただけたらと思います。

小長谷先生
文学と科学って離れた関係、もっと言えば対極の存在という印象もあるかと思いますが、湯川先生のように、文学から得た想像力から科学的な研究を成し遂げる人もいます。文系・理系と分けられているものが、いかに親近性をもっているかを感じていただきたいですね。

小沼先生
湯川先生って100年も前の人っていうイメージでしょう? だけど現代に与えるインパクトも相当なものなので、とくに若い人たちには1カ所だけでも感じとる部分を見つけだしてもらえるとうれしいです。世界的に見ても、ノーベル賞をもらった人でもこれだけの史料が残っているというのは、なかなかない。

湯川先生は国際的な平和活動にも参加するなど、社会問題にも取り組みますが、日記を見れば、戦中から戦後にかけての「国のために命を捨てていい教育」が間違っていた、国って絶対じゃないということが見えていた人だったということもわかります。今でも決して過去の問題じゃない。没後40年の機会に常設展が開けたのはよかったと思います。

 

ノーベル賞受賞で誕生した記念館が、日本初の全国共同利用研究所に

――ところで「記念館」と聞くと、展示がメインの施設をイメージするのですが、研究所なんですね。いつ設立された、どんな施設なのでしょうか?

小沼先生
湯川記念館は、湯川先生のノーベル物理学賞受賞を記念してできた施設です。1949年11月3日に授賞が発表された直後、鳥養利三郎総長がすぐに動き、10日の評議会では急いで記念事業を行いたいという議論がなされました。一方、日本学術会議も翌年1月の総会で、国家的事業を行うよう政府に申し入れをします。
日本学術会議側の窓口となった朝永振一郎先生は、日本で二番目にノーベル賞を受賞した人物で、湯川先生の同級生でした。京大側の責任者だった理学部教授の小林稔先生は、湯川先生が最初に講義をしたときの学生で、朝永先生の助手でもあり、ノーベル賞の中間子理論の第4論文の共著者だったことから、お互い気心が分かっていて京大と学術会議の動きがひとつになったんです。
それで当時、アメリカのコロンビア大学にいた湯川先生に希望を訊いたところ、「京大に世界中の研究者が使える施設をつくりたい」と。こうして1952年の夏のはじめに研究施設の湯川記念館として建物が完成し、翌年、日本初の全国共同利用研究所としてスタートを切りました。研究所ができてからは「湯川記念館」は建物の名前として今でも使われています。

湯川秀樹先生

 

――日本初! 世界中の研究者が…という斬新なアイデアは、どこから来たものだったんでしょう。

小沼先生
湯川先生はアメリカのプリンストン高等研究所に招かれ1948年から1年間、客員教授を務め、翌年コロンビア大学の客員教授になるのですが、プリンストンの研究所で世界中の人々と議論や思索にふけり、アイデアを生みだす経験をしたんです。しかも翌年には朝永先生、その翌年には小林先生も1年間、ここに滞在していたので、関係者の頭の中に同じイメージが共有できていたんですね。

湯川先生の希望に合わせ、訪問者が滞在できる部屋や宿泊設備、自由に集えるサロンなどを設け、議論をするための黒板も全室に設置。理論物理学、とくに素粒子物理学や原子核物理学、物性物理学といった分野の人たちの集まる場所になりました。

中川さん
現在でも基礎物理学研究所には世界中から研究者が集まってくるので、国際色豊かですよ。コロナ禍以降は主にオンラインになっていますが、年間通して研究会やセミナーが開かれています。所内にはビジターのための部屋がいくつもあります。

国内外からの研究者が集まる湯川記念館の風景

小沼先生
私自身も素粒子の理論が専門で、まだ東京にいた1953年当時からここに出入りし、1967年から1981年9月に湯川先生が亡くなった少しあとまで助教授として勤めていましたが、世界中の人が居る方が普通でした。

――湯川先生はずっと記念館にいらっしゃったんですか?

小沼先生
1953年、研究所の初代所長に就任し、1970年に京都大学を退職するんですが、その後も物理の議論に参加されていました。その他にもつながりがありました。というのも湯川先生は戦時中から、日本の業績を世界へ知らせる発表の場をつくりたいと準備を進め、『Progress of Theoretical Physics(理論物理学の進歩)』という英語の学術雑誌を1946年に個人で創刊するんです。その編集刊行を記念館で行うようになったので、亡くなる3週間前までここへ来られていました。

『Progress of Theoretical Physics(理論物理学の進歩)』

『Progress of Theoretical Physics』の編集会議風景。中央の髭の男性が湯川先生

――物理学の振興にも尽力されたんですね。1946年創刊ということは、まだノーベル賞は受賞されていない時期ですよね。

小沼先生
そうですね。この雑誌には、朝永先生などノーベル賞をもらうような方々の論文が創刊時から載っており、終戦すぐの日本で生まれた学術雑誌にもかかわらず世界中から受け容れられるものとなりました。

ところで湯川先生が、のちにノーベル賞を受賞することになる論文を書いたのは、大阪帝国大学で講師を務めていた27歳のときで、実はこれが初めての論文でした。1934年の11月1日からこの論文を英文で書き始めて、17日には東京大学で開かれた日本数学物理学会で「中間子論」を講演します。月末までに仕上げて同学会誌に投稿し、翌年最初の号に掲載されます。これらの手書き原稿も展示しています。しかし、最初はほとんど注目されませんでした。

――そうだったんですか…。せっかく海外に向けて発表したのに…。

小沼先生
それもそのはず。当時この分野をリードしていたのは欧米でしたからね。日の目を見るのは2年後。湯川先生が予言した重さの粒子、つまり中間子がアメリカで見つかり、日本の実験でもこの粒子が確認され、先生は一躍、世界的な著名人になります。しかし詳しく調べると、実は性質が違う別のものだったんです。1947年、イギリスの実験でついに本物の湯川の中間子が見つかり、すぐにノーベル賞の受賞に至ったんです。

 


<湯川先生が予言した「中間子」って?>

湯川先生が大学を卒業した当時は、原子の芯の原子核は謎だらけのものでした。3年後に中性子が発見されて、原子核は陽子と中性子からできているという理論が出たのですが、強い反発力があるから、プラスの電気をもつ陽子と電気をもたない中性子がいくつも集まってしっかり固まっているはずがないのです。湯川先生は両者がバラバラにならずに結びついている理由を説明しようと研究し、陽子と中性子を結びつけている未知の強い力があることを見抜き、この力に関係する「中間子」の存在を予言しました。


 

――発表から13年後に! 新しい研究が評価されるのは、それだけ大変なことなんですね。

小沼先生
研究所発足後も湯川先生は、自分の研究だけでなく、いろんな分野の新しい芽を育てることに力を注ぎました。みんなの出した研究計画のどれに予算をつけるか選ぶ際にも、新しいアイデアを大事にし続け、後進の研究者たちに宇宙物理学や生物物理学といった分野を開拓させ、大きな成果を上げています。湯川先生自身、ほかの人がやったことを改良する仕事には興味がなく、最初から人ができないことを考えていく人だったんです。

湯川先生の直筆資料を解説する小沼先生

――道なき道を進む苦労をご存知だったからこそ、サポートにも力を入れられたのでしょうね。

小沼先生、小長谷先生、中川さんのお話には湯川先生への愛があふれていました。ありがとうございました!

 

◆京都大学基礎物理学研究所常設展示「湯川秀樹と読書 ―ノーベル賞物理学者の原点―」(完全予約制)の観覧案内はコチラ!

https://www.yukawa.kyoto-u.ac.jp/tenji

 

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